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季節の中で ~ 癒しの写真&音楽 Mako’s Homepage Diary ~
2002年からデジタル写真に音楽や詩、またFlashやJavaなどを組合せて、癒しを表現してきました。 自然と接して日々感じたことや撮影写真のことなどを綴って行きたいと思います。
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ユゴー生誕200年記念「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」

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 会社の先輩に誘って頂き、ユゴー生誕200年記念「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」に行ってきました。
サントリーミュージアム[天保山]は、昨年の1月に今宮戎神社の帰りに寄って、夜景を撮影して以来です。
風がややありましたが、マフラー、コートも持参していましたから、よかったです。
アイマックスシアターとの共通券で1600円でした。
映画は、3D用のメガネで、USJを思い出しました。
USJの時は、水もかかりましたが^^。
お昼は、久々のお店「鶴橋 風月」でのお好み焼きとビールでした。 

 「愛するとは行動すること」の言葉どおりの人生を感じることができました。
その中でももっとも多くの人に読み継がれ、ミュージカルでもおなじみの「レ・ミゼラブル」も、再度、観たくなりました。

 文学活動のみにとどまらず、民衆の幸福と勝利のために敢然と戦った19世紀フランスの大文豪ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)。
その生誕200周年の佳節(2002年)を記念して企画されたものです。
本展は、パリ郊外ビエーブルにあるヴィクトル・ユゴー文学記念館の全面的な協力を得て開催されました。

 同館からはフランス国宝5点を含む貴重な資料が出品され、ユゴーの激動の生涯と人間主義に根ざした思想と行動、その文学作品の全貌を紹介。
合せて、ユゴーが生きた同時代の絵画・彫刻・工芸・写真・ファッション・楽器・音楽や演劇の資料など、19世紀フランスの芸術文化の粋を、フランス・日本の25以上の美術館から出品される展示品がありました。

 美術の分野では、ドラクロワ初期の名作「収穫の聖母」(日本初公開)をはじめ、ロマン主義の画家たちの作品のほか、音楽の分野では、ベルリオーズをはじめロマン派の音楽家たちにゆかりの楽器など、ユゴーと交流のあった同時代の人々の軌跡を辿りながら、ロマン派の時代を広い視野で展観できました。

■第1部 「ヴィクトル・ユゴーの生涯と作品」
 第1章 1802-1851
  宇宙の詩、生命の曲:亡命前のユゴーとその時代
 第2章 1851-1870
  大洋のごとき魂のリリスム:亡命中のユゴーとその時代
 第3章 1870-1885
  ユマニテの精神闘争:亡命後のユゴーとその時代

■第2部 19世紀フランスの芸術と文化
 第4章 美術のロマン主義とその周辺:ドラクロワと同時代の芸術家たち
 第5章 音楽のロマン派とその周辺:ベルリオーズと同時代の音楽家たち
 第6章 "19世紀の首都"パリの都市と文化:写真、演劇、ファッション

■遥かなる夢 ニューヨーク物語(1時間)
 11歳の少年トーマス・ミントンはロシア人密航者。
 アメリカに向かう船の中で心に描くのは、100年ほど前にやはりこの海を渡ったレオポルド・ミントンのことでした。
 彼は立体写真家となり、ニューヨークを撮ったモノクロの立体写真を手紙とともに故郷の家族に送っていました。
 そして今、この古ぼけた写真と手紙を握りしめたトーマスが、ミントンの家族を捜しにやって来たのでした。
 はたして彼は、みつけることが・・・。
 トーマスの目に映る現代のニューヨークは、まるで街自体が生きているかのように表情豊かです。
 ブロードウェイでヒットしたミュージカル「CRAZY FOR YOU」のダンスシーンが登場したり、ニューヨークの光景が生き生きと描かれています。
 また、レオポルドが立体写真で撮影した昔のニューヨークの景色や彼の手紙からは、日一日と目覚しい発展を遂げていくニューヨークを支える移民たちの姿が浮かび上がります。

 建物の前に写った家族の写真が手掛かりですが、最後に見つかり、ミントンお婆さんに抱きしめられ、・・・、また家族で写真を撮るシーンがラストでした。

 今日の写真も、庭の白梅です。

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  1. 2005/03/19(土) 22:00:00|
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ヴィクトル・ユゴー Victor Hugo語録


民衆が苦しんではいけません!
民衆が飢えてはいけません!
そこにこそ深刻な問題があり、
そこにこそ危険があるのです。
そこにだけ、みなさん、そこにだけです、
ほかには危険はないのです!


不幸におちいらない秘訣は、
人を愛して働くことだ。


獅子には
狐のしきたりはない。


声に出して言わないことが、
ときとして、
もっとも多くの禍をもたらすのです。


私は神を信じている。
魂も信じている。
人間はその行動に対して責任があることも信じている。
私は宇宙を支配される神の加護をもとめる。
だが今日のどの宗教も、
人類と神に対する義務を果していないから、
私の葬式には、
どんな司祭にも立ち会ってもらいたくない。
(一八六〇年に述べた自分の信念)
『ヴィクトル・ユゴーの生涯』


心の目がまばゆい光と暗黒とをいちばん多く見つけるのは、どこよりも人間のなかである。
また、心の目が見つめるもので、
人間以上に恐ろしく、
複雑で、
ふしぎで、
無限なものは、
なに一つない、
海よりも壮大な眺めがある、
それは大空だ。
大空よりも壮大な眺めがある、
それは人間の魂の内部だ。
『レ・ミゼラブル』


青年の貧乏はけっしてみじめなものではない。どんな若者でも、健康で、力強く、
歩きぶりも元気がよく、目がかがやき、
熱い血潮がからだをめぐり、
髪は黒く、頬は若々しく
くちびるはバラ色で、歯は白く、
はく息も清らかであれば、
どんなに貧しかろうとも、
年老いた皇帝からいつでもうらやましく思われるだろう。
『レ・ミゼラブル』


法律だの風習だのがあるために、社会の処罰が存在して、文明の世のただ中に、わざわざ地獄をつくりだし、神がつくった運命を人間の禍でもつれさせているかぎり、
また貧困のせいで男が堕落し、ひもじさのせいで女が身を持ちくずし、暗い境遇のせいで子どもがいじけてしまうという今世紀の三つの問題が解決されないかぎり、
またどこかで、人間が社会のために窒息させられるようなことがあるかぎり、いいかえれば、そしてもっと広い見かたをするならば、地上に無知と悲惨とがあるかぎり、こういう性質の本もあながち無益ではあるまい。
オートヴィル=ハウスにて、一八六二年一月一日
『レ・ミゼラブル』序文


みなさん、世情の沈静化には一つの方法しかありません。
それは過去を水に流すことです。
みなさん、政治の世界の言葉では、過去を水に流すことは大赦と申します。
私が要求しているのはこの大赦です。
私が要求しているのは完全で十全な大赦です。
無条件の大赦。
制限のない大赦。
大赦といえば大赦しかないのです。
水に流すこと以外には赦しはないのです。
パリ・コミューン参加者大赦要求演説------上院本会議
(一八七六年五月二十二日)
『言行録』

10
たとえ果てしなくつづこうとも、私はつらい亡命を受け入れる、意志強固だと信じていた友が屈服してしまったかどうか、また、亡命地にとどまるべき者の多くが帰国してしまったかどうか、そんなことは知ろうとも、考えようともせずに。

あと千人しか残らなくなっても、よし、私は踏みとどまろう!
あと百人しか残らなくなっても、私はスラ*に刃向かおう。
十人残ったら、私は十番目の者となろう。
そして、たったひとりしか残らなくなったら、そのひとりこそはこの私だ!

*古代ローマの独裁者。ここではナポレオン三世を指す。
「結語」(『懲罰詩集』)

11
みなさん、活字文化は社会の光であります。
そして、光のなかには、必ず、何かしら神性が宿るものです。
思想は権利以上のものです。
人間の息吹でさえあります。
思想の邪魔をすることは人間そのものを害することになるのです。
(中略)
活字文化は力であります。
なぜでしょう?
なぜならば、活字文化は知性だからです。
活字文化は生きたラッパです。
起床ラッパを鳴らして、諸国の民を目覚めさせます。
『レ・ミゼラブル』出版記念会挨拶(『言行録』)

12
私は貧しい人々に五万フラン(現在の日本円で四千万円)を寄付する。
貧しい人々の引く霊柩車に乗せてもらって、私は墓地に運ばれたい。
ありとあらゆる教会の追弔の祈祷を拒否する。
ありとあらゆる人間の魂に祈ってもらうようお願いする。
私は神を信ずる。

一八八三年八月二日
弟子のオーギュスト・ヴァクリーに託していた遺言
『言行録』
  1. 2005/03/21(月) 23:20:27 |
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ヴィクトル・ユゴー Victor Hugo(1802-1885)とは

ヴィクトル・ユゴーは、1802年2月26日フランス東部ブザンソンにてナポレオン軍の軍人レオポル・ユゴーと理知的でしっかり者のソフィー・トレビュシェの間に生まれました。
少年期よりすでに詩人としての才能を現し、多様な作品を手掛けてきました。
1816年ユゴーが14歳の時の日記に「僕はシャトーブリアンのような人物になりたい、それ以外は絶対嫌だ」と書いています。
シャトーブリアンとは、当時、政界でも活躍した文学者。
日記に書くほどユゴーは彼を崇拝し、文学の道に進むことを固く決心しました。
1821年に最愛の母、ソフィーが他界。
ユゴーは19歳でした。
ショックを受けながらも彼は次々と作品を発表し、国王ルイ18世から奨励金を受けるほどになります。
翌年、ユゴーは幼なじみのアデール・フーシェと結婚、その後、子どもにも恵まれ、人生の新しい一歩を踏み出しました。
1827年、ユゴー25歳の時にロマン派文学の傑作といわれる「クロムウェル」とその「序文」を刊行します。
「ロマン派」とは、自由な考えを尊重し、洗練された文学を推奨するもので、それまでに広まっていた古典的主義に反する考えです。
1830年、「エルナニ」を上演し、大成功を収め、ロマン派の古典派に対する勝利となりました。
ロマン派主義のリーダーであったユゴーは、14歳の時から崇拝していたシャトーブリアンを見習い、政界にも興味を示します。
彼は、文学だけに留まらず、フランス社会をも見直そうとするのです。
1845年には、子爵の冠位を受け、貴族院議員に任命されます。
ユゴー、43歳の時でした。
その後、大統領に支持するほど信頼をよせていたルイ・ナポレオンの自由主義に疑念を抱き、彼の野心を糾弾する演説やクーデターに反対する抵抗運動を組織しましたが、失敗となってしまいました。
1851年、印刷工に変装し、ついにパリから亡命、ベルギーのブリュッセルに脱出。
そこでも、ユゴーは、ルイ・ナポレオンを批判した「小ナポレオン」という冊子を発表します。
(注:1852年、ジャージー島にいる時にブリュッセルで刊行)
1852年ユゴーが50歳の時にイギリスのジャージー島に移住、そこで、当時パリで流行していた交霊術に熱中しました。
人々のさらなる自由への飛躍を求めて叙事詩「神」や「静観詩集」などを次々と発表します。
1859年、ナポレオン3世が亡命者に特赦令を出し、フランスに帰国することを許す法令を出しましたが、ユゴーは拒否し、自分の信念を貫きました。
1862年には、ユゴーの代表作となる「レ・ミゼラブル」が刊行され、彼の徹底した「人間主義」は多くの人の共感を生み、大好評となりました。
同時に、アメリカの奴隷解放運動、諸国の民族解放運動に対する支援、国際平和を希求し、活躍をしました。
1870年、ナポレオン3世が失墜し、ユゴーはフランスへ帰還しました。
長い亡命生活が終わったのです。
その後も民主主義擁護の政治家、文学者として国民的尊敬を集めました。
ユゴーは、80歳になっても活動を続けましたが、1885年、感冒にかかったのが原因で、肺鬱血をおこし、孫たちに看取られ、83歳の生涯に幕を閉じました。
国民の信頼が厚かったユゴーの葬式は国葬となり、200万人が葬列を見送ったと言われています。

フランス、パリ郊外のピエーブルにあるヴィクトル・ユゴー文学記念館
若き日のユゴーは、この館を度々訪ね、音楽家のベルリオーズやグノー、リスト、文学者のシャトーブリアン、画家のジロデやアングルなどと芸術や文学を語り合った。
  1. 2005/03/21(月) 23:09:31 |
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